北条高時腹切りやぐらは鎌倉の心霊スポット!立ち入り禁止についても紹介
古都鎌倉はいつも観光客が絶えない人気のスポットです。ところで鎌倉駅から近いところにありながらあまり知られていない北条高時腹切りやぐらは鎌倉有数の心霊スポットでもあります。北条高時腹切りやぐらは一般的には立ち入り禁止となっていますが、入れる方法も紹介します。
目次
鎌倉の有名心霊スポット「北条高時腹切りやぐら」へ行こう!
関東の古都として観光客でにぎわう鎌倉に、有名な心霊スポットがあります。それは「北条高時腹切りやぐら」というのです。北条というのは知っての通り源一族から鎌倉幕府の政治を執権として受け継いだ北条氏です。
その北条氏の最後の代が北条高時なのです。心霊スポットの北条高時腹切りやぐらとはどのようなところなのでしょう。
鎌倉観光の穴場スポット!
鎌倉を観光しようと思ったら、まずは北鎌倉で降りて五山第一位の禅寺の建長寺に行くか、円覚寺を覗いてみるでしょう。そしておもむろに鎌倉駅まで行って、鶴岡八幡宮へ参拝するのです。
あとは江ノ電に乗って長谷寺やその近くの鎌倉の大仏を拝んで、さらに江ノ電を乗り進んで江ノ島まで行くというのがおきまりのコースとなっています。当然人気のコースなので大勢の人が歩き回っていて、人混みからは抜け出せません。
ところが、「北条高時腹切りやぐら」は由緒ある心霊スポットなのに、訪れる人も多くなく、鎌倉観光の穴場的なスポットになっているのです。
北条高時腹切りやぐらとは?
それでは鎌倉の秘められた心霊スポットの「北条高時腹切りやぐら」とはどのようなところなのでしょうか。
鎌倉幕府滅亡の地
「北条高時腹切りやぐら」というのは、北条高時が腹を切って自害した「やぐら」ということです。それではこの「やぐら」とは何でしょうか。やぐらというのは鎌倉の周辺で鎌倉時代中期以降から室町時代前半にかけて作られた横穴式の納骨窟・供養堂です。
「やぐら」は山に囲まれており横穴を掘りやすい鎌倉石という砂岩からできている鎌倉の地で、鎌倉時代中期頃から巌堂、岩殿寺のような岩窟寺院をヒントとして作られた中世の横穴式墳墓です。
そして北条高時腹切りやぐらとは、北条高時が腹を切ったことで鎌倉幕府が最終的に滅亡してしまった場所でもあります。
「やぐら」は鎌倉特有の墳墓
平地の少ない鎌倉で鎌倉幕府が興されたことから、急に人口が増大したために鎌倉の墳墓は勢い山頂や斜面に作られるようになったのです。さらに上手い具合に横穴式の墳墓を造成できる奈良や京都の職能集団が関東に進出したことも流行った原因となります。
洞窟などの横穴を墓とした例は日本の他の地にも見られますが、「やぐら」と呼ばれるのは鎌倉とその周辺だけです。さらに人口が密集している鎌倉周辺から少し離れると途端に「やぐら」は見られなくなるのです。
北条高時が自刃した場所として有名
北条高時腹切りやぐらがあるのは鎌倉の東勝寺旧跡の北方です。実はこの東勝寺にて鎌倉幕府が滅亡した最後の決戦が行われ、東勝寺合戦と言われています。東勝寺合戦は鎌倉時代末期の1333年に行われました。
この合戦は元弘の乱の最後の戦いで、元弘の乱というのは1331年から始まった倒幕運動でそれを指揮していたのは後醍醐天皇でした。当初鎌倉方も善戦していたのですが、次第に形勢が不利になり、最後は追い詰められて東勝寺へ逃げ込んだのです。
ちなみに東勝寺は鎌倉幕府第3代執権の北条泰時が創建した北条氏の菩提寺なのです。北条高時が最後の地として選んだのはこの北条氏の菩提寺である東勝寺でした。
北条一族約870人が自刃したが遺骨が見つかっていない
新田義貞らの大軍勢が投入されて敗走状態となった北条方は、鎌倉市街や切り通しなどで退却しながらも勇敢に戦いましたが、北条基時など大勢が戦死しました。一方、北条高時らは東勝寺に追い詰められて、もはや逃れられないと観念したのです。
「太平記」によれば寺にこもった最後の北条一族と家臣たちは、長崎高重、摂津道準、諏訪直性らの北条被官から順番に腹を切っていったのです。そして最後に北条高時らが自害しました。
自害した人数は北条一族が283人、これに家臣と兵を会わせて合計870人余りだったとのことです。なお、不思議なことに北条高時らの遺骨は見つかっていません。新田勢や時宗の僧らが処理したとも推定されていますが真実は謎です。
北条高時とは?
それでは「北条高時腹切りやぐら」の主人公の北条高時とは、いったいどのような人だったのでしょうか。
第14代鎌倉幕府執権
北条高時は鎌倉幕府第14代執権で、在職期間は1316年から1326年です。第9代執権の北条貞時の三男でもあります。北条高時の人物像として文献で伝わっているのは、「太平記」、「増鏡」、「保暦間記」、「鎌倉九代記」などに記録があるのです。
それによると、闘犬や田楽に興じた暴君または暗君として描かれています。太平記には高時が妖霊星(彗星のこと)を見て喜び踊ったとしています。一方で藤原仲範は妖霊星は亡国の予兆なので鎌倉幕府が滅亡することを予測しているのです。
太平記には高時は暗愚であった上に江島弁財天の加護も切れてしまっているので、鎌倉幕府の滅亡は至極当然のことだと結論づけています。
そもそも「執権」とは何か
執権というのは鎌倉幕府の職名で、鎌倉殿(幕府の頭領で源氏のこと)を助けて政務を統括しました。初代執権は1203年に北条時政が外孫の3代将軍源実朝を擁立した際に政所別当と共に任じられました。北条氏の権力の足場となったのです。
2代執権の北条義時が侍所の別当を兼ねてからは、事実上幕府の最高職となりました。源氏の将軍が3代の実朝で途絶えてからは、名目上の鎌倉殿を立てて、その下で執権が幕府の事実上の最高責任者となる体制を作り上げてしまったのです。
その後北条氏が絶対的権力者となり、源氏なきあとの鎌倉幕府を牛耳っていったのです。
病で執権職を辞任
北条高時は1316年に父貞時と同様に14才の時に14代執権となりました。足かけ10年間執権を務めましたが1326年に病のために執権職を辞任して出家したのです。法名は祟鑑といいます。
執権となったのは1316年(正和5年)7月10日のことでした。14才ですが既に従五位上に昇叙していました。そして1326年(正中3年)3月13日に24才で出家し執権を退いたのでした。
29歳の時に自刃
北条高時は新田義貞らが鎌倉に攻めて来たときには既に出家していて、静かに暮らしていたのですが、いよいよ絶体絶命となって東勝寺で自刃したのです。1333年(元弘3年・正慶2年)5月22日のことでした。
執権を辞してから5年後に自刃し、北条氏を始め関係者が亡き者となり、鎌倉幕府は滅亡してしまったのです。
北条高時腹切りやぐらの心霊現象
北条高時腹切りやぐらのある東勝寺合戦跡地には、当然のことながら無念の中で死んでいった多くの魂が残存していると見てよいでしょう。しかもその数は数十人というような単位ではなく、870人を超す大人数なのです。
夜中に鬼や妖怪などが群れ歩くのを「百鬼夜行」といいいます。昔から百鬼夜行に遭遇すると死んでしまうので恐れられていました。この鬼や妖怪は100体ですので、これの8倍の人数の怨念となるとどこまで恐ろしいかが想像できるでしょう。
北条高時腹切りやぐらは鎌倉でも有数の心霊スポットのため、数々の心霊現象がSNSで噂されています。
①お供えした水がなくなる
北条高時腹切りやぐらの一帯は、大規模な霊たちが彷徨っている注意すべき心霊スポットなので、普段から鎮魂の儀式が欠かせません。北条高時らが没してからというもの、たたりを恐れた後醍醐天皇は「徳祟大権現」という神号を下賜されました。
この結果、高時は神として宝戒寺に祀られているのです。鎌倉幕府が滅亡した5月22日には高時の慰霊のために徳祟大権現会・大般若経転読会が行われます。そして境内の徳祟大権現堂に祀られている北条高時像が本堂に迎えられるのです。
北条高時を祀りお供え物も欠かしませんが、お供えした水がなくなるという不思議な現象が報告されています。これはやはり心霊現象の一種ではなかろうかと言われて恐れられているのです。
②落ち武者の霊が出る
北条高時腹切りやぐらの周辺にはたくさんのやぐらがあります。鎌倉の切り通しの斜面には霊が漂っていると見てよいでしょう。そして鎌倉幕府が滅亡した大きな戦いの時にはおびただしい死体が群がったのです。
このために、心霊スポットとしての北条高時腹切りやぐらには、今でも落ち武者の霊が出没するという報告がSNSに上げられています。東勝寺合戦はただの戦ではなく、北条氏を始めとして鎌倉幕府関係者が一斉に自刃してしまった跡地です。
このような大量の命が失われた場所というのは、700年の時を超えてもやはり落ち武者の霊などが徘徊してしまうのです。この付近には決して夜間には行かないようにしましょう。
③体調不良になる人もいる
北条高時腹切りやぐらの近くへ行くと、霊障というのでしょうか霊の持っている負のエネルギーをまともに受けてしまいます。そして今まで元気だった人が急に原因不明の体調不良になってしまうことがたびたびあります。
食欲がなくなったり、下痢が続いたり、頭痛がしたりしていつもの自分の状態が変調をきたしてしまうのです。また、手足にしびれが出て来ることもあります。立っているのが苦しくなって歩くのが面倒になる状態も出現します。
このような体調不良は、北条高時腹切りやぐらの周辺から離れれば治まるものですが、鎌倉を離れても続くようですと問題です。このような時には霊能者に依頼して除霊が必要になるかも知れません。
北条高時腹切りやぐらの現在!
鎌倉でも有数の心霊スポットである「北条高時腹切りやぐら」はオカルトファンも訪問する人が後を絶たないようです。700年前に壮絶な事件があったこの地は、現在はどのようになっているのでしょうか。
参拝目的以外の人は立ち入り禁止
北条高時腹切りやぐらは、現在は完全立ち入り禁止ではありません。参拝目的であれば入ってよいのです。しかしながら、ここまで説明してきたようにこの地はただの横穴墳墓ではありません。
本当に北条高時の霊を鎮魂する気持ちで参拝しないと、不測の事態を招くかも知れないのです。興味本位で見に行くようなことは慎まなければなりません。
現在も発掘調査が続いている
東勝寺旧跡では発掘調査が遂行されてきました。その結果、北条氏を示す三つ鱗の入った瓦などが出土していますが、遺骨は依然として発見されていません。
北条高時腹切りやぐらおよびその周辺のやぐらは東勝寺合戦の戦死者が葬られていると考えられています。そのため供養会では卒塔婆が立てられています。
今後も発掘調査は勧められていくことになっていますので、新たな発見が期待出来るかも知れません。
宝戒寺二世普川酷使入定窟
東勝寺合戦の後、滅亡した北条一族を弔うために足利尊氏によって、宝戒寺が建てられました。この地はもとの北条得宗家邸があったところです。
そして鎌倉市浄明寺の釈迦堂谷奥山頂部には、「宝戒寺二世普川国師入定窟」という巨大なやぐらを中心として多数のやぐらが存在しました。このやぐら群には多量の生焼けの人骨があったのです。
これらの人骨は東勝寺での戦死者の遺体をこれらやぐら群に葬ったとの伝承があります。その後昭和40年代の宅地開発の際に「元弘三年五月廿八日」の銘のある五輪塔の一部も発見されています。これは合戦の事実を示しているのです。
北条高時腹切りやぐらへのアクセス方法
最後に北条高時腹切りやぐらへのアクセス方法を説明しておきます。
鎌倉駅から徒歩約15分
北条高時腹切りやぐらは東勝寺跡にあります。ここへ行くにはJRの鎌倉駅を降りて鶴岡八幡宮参道の若宮大路の一本東の通りに入り山側へ歩いて行くと見つかります。徒歩で鎌倉駅から15分程度で到着できるのです。
若宮大路の先の二の鳥居前を右に曲がり、突き当たりを左に行くと路地に出ます。路地を進み東勝寺橋まで来たら橋を渡って50mほど進めば「北条高時腹切りやぐら」に着きます。
周りは閑静な住宅街!参拝は静かに行う
東勝寺跡はひっそりとした場所です。しかもその周辺の路地は閑静な住宅街となっています。昨今、北条高時腹切りやぐらが鎌倉有数の心霊スポットであるとの噂が広まったせいか、参拝者が多くなりました。
くれぐれも周辺の住民に迷惑をかけないように、静かに参拝しましょう。
住所 | 神奈川県鎌倉市小町3丁目 |
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北条高時腹切りやぐらで700年前にタイムスリップしよう!
「北条高時腹切りやぐら」というのは初めて耳にしたら、ドッキリする名前でしょう。言葉の響きからすると、高いところで北条高時が腹を切るのを民衆が下から見ているという情景を連想したくなるでしょう。
ところがこの言葉の解釈は違っていて、本文で説明したように「やぐら」というのは鎌倉特有の横穴墳墓なのです。いずれにしてもこの地では大勢の命が失われた、歴史的事件があった場所です。
鎌倉でも有数の心霊スポットという噂もありますが、とにかく北条高時腹切りやぐらは史跡としても重要な場所です。古都鎌倉で、700年前にタイムスリップしたつもりで、当時を空想してみるのも興味深い旅になります。