貝塚結核病院(大阪)は心霊スポット?現在は廃墟となり取り壊し?
貝塚結核病院は大阪府南部の貝塚市にあり、関西屈指の心霊スポットとして日本全国の心霊マニアに知られていました。病院としての役割を終えた建物は廃墟となり、夏になると若者が肝試しに訪れた場所です。現在の貝塚結核病院はどの様になっているのかを調べてみました。
目次
大阪の心霊スポット「貝塚結核病院」について紹介!
廃墟と呼ばれる場所の中には心霊スポットとしての噂が立つことも珍しくありません。貝塚結核病院も例外ではなく全国的に有名なスポットとして注目を集めています。
様々な心霊体験が報告されている貝塚結核病院について詳しく紹介していきます。
貝塚結核病院が大阪の心霊スポットとして注目を浴びるようになった理由はどこにあるのでしょうか。歴史を追いかけていく中で、謎が明らかになってきました。
貝塚結核病院の歴史
貝塚結核病院の歴史は1948年に始まり、正式名称は大阪市立少年保養所です。当時は死の病として恐れられていた結核専門の医療機関として開設されました。結核は人から人に空気感染するため咳をするだけで結核を疑われ、その人だけでなく家族まで結核患者として敬遠されることもあったそうです。
しかし、小児結核は適切な治療を受ければ完治する可能性が高いことも分かっていたため、入院しながら学校に通うことができる施設として貝塚結核病院の歴史が始まりました。
時代によって役割を変えながら続いた貝塚結核病院は、入院する児童がいなくなったことで1992年に閉所されました。
貝塚千石荘病院
貝塚千石荘病院は大阪での結核患者の増加を予測して1940年に開設された結核医療の拠点施設で、正式名称は国立療養所千石荘病院です。
結核患者を専門に治療する病院として多くの命を救ってきましたが、戦後になって結核の治療法が急速に進歩してからは循環器系患者などを治療する役割を担っていました。
2003年には国立大阪病院と統合され国立病院大阪医療センターになりました。そのため、貝塚千石荘病院は閉院となります。
少年保養所「つくし寮」
つくし寮は小児結核の児童たちが治療を受けながら学業を続けるための療養施設で、児童はここから貝塚養護学校に通っていました。当時は保養所を抜け出す児童もいたようで、施設には厳重に鍵がかけられていたとも言われています。
結核患者が大幅に減少してからは小児喘息の専門病棟に役割を変えました。また、1973年からは生活習慣病や心身障害の児童も受け入れます。1992年に閉鎖されるまでの間、子どもたちは家族と離れて生活し、ここで学業と治療を続けていたわけです。
貝塚養護学校
貝塚養護学校はつくし寮の児童が通っていた小中学校の総称です。開校当初の名称は付設貝塚学園で、1958年に貝塚養護学校に改称されました。大阪府南部に分散していた同じ目的の学校を統合して、貝塚養護学校としてスタートした経緯があります。
1967年からは小児喘息の児童を治療するために喘息児病棟が増設、1973年からは生活習慣病や心身障害の児童も受け入れることになったのです。さらに、1993年からは大阪市内の病院へ訪問授業も行い、入院児童の学業をサポートしていました。
2003年に千石荘病院が閉鎖されたため入院しながら通学する児童はいなくなりましたが、病弱などの理由で通学する生徒は残っているため学校は存続します。
しかし、社会環境の変化や大阪市の財源難により2009年3月で貝塚養護学校は閉校しました。
貝塚結核病院の心霊現象は?
貝塚結核病院に肝試しに行った人たちからは、心霊現象と思われる報告が何件も寄せられています。ほとんどの人には何も起きないのですが、中には恐怖の体験をした人もいるようです。
閉院後は長らく放置され、周辺が野山だったこともあり草木が伸び放題の場所でした。加えて、当時は死の病と恐れられていた結核を専門に扱う病院というイメージが心霊スポットに結び付いたのでしょうか。
心霊現象と思われる報告が数多く寄せられる中で、今回は心霊現象としてネット上に投稿されている話の中から3つを紹介していきます。
心霊現象その1:「おーい」
11人のグループが車に分乗して貝塚結核病院に向い、深夜2時ごろに到着しました。周囲には当然のように照明はなく、懐中電灯の明かりだけが頼りです。8月にもかかわらず肌寒さを感じる中、草木をかき分けながら病院に向かって歩を進めます。
2つある建物の右側に入り各部屋を覗きながら2階に上がった時です。グループの中で唯一霊感があるらしい人が「今、おーいって聞こえた」と言い出します。
何かの聞き間違いだろうと話をしていると、今度は11人全員に聞こえるほど大きな声で「おーい」と呼ばれました。グループ全員は慌てて建物から出て、車で病院を後にしたそうです。
心霊現象その2:「帰れ!」
病院の中を探索中に「帰れ!」と叫ばれる心霊現象も投稿されていて、男性による大きな声だったことが共通している点です。
長年に渡る入院生活で治療の甲斐なく無念の死を遂げた人の霊が、遊び半分で訪れた人に対して怒りをぶつけたのでしょうか。それとも、「帰りたい」という思いが幻聴として「帰れ!」になったのでしょうか。
心霊現象その3:足を掴まれる
足を掴まれるといった体験談もいくつか報告されています。本当に心霊現象なのか、それとも、散らかった建物内の何かに足が当たっただけなのかは誰にも分かりません。
心霊スポットにいるという緊張した心理状態の中、懐中電灯しか明かりがない状況でわざわざ自分の足に光を当てて確認しようとする人はいないでしょう。
貝塚結核病院は廃墟マニアにも人気?
放置された建物は年月と共に風化が進み廃墟になりやすいものです。貝塚結核病院も例外ではなく、廃墟化が進み廃墟マニアを呼び寄せることになります。
廃墟に関する書籍や写真集が数多く出版される時代でもありますが、貝塚結核病院の何が廃墟マニアの心を掴んだのでしょうか。
廃墟マニアが引きつけられた理由
廃墟マニアの人たちを引きつける魅力にはパターンがあるようです。夜ではなく明るい昼間に訪れる人が多いのも、現場をしっかり観察したい気持ちの表れではないでしょうか。
貝塚結核病院には有名な他の廃墟と同様にマニアの心を刺激する要因がいくつかあったようです。
空間の時間が止まっている
何十年と放置された建物の中には歴史的価値の高いものもあります。当時の建築様式や特徴的な造りに興味のある人なら、廃墟マニアでなくても一度は見たくなることでしょう。
貝塚結核病院も存在の特殊性から一部には他では見られない建築構造があったようです。建築当時から時間が止まったかのように残る姿が廃墟マニアの心をひきつけるのでしょう。
貝塚結核病院の場所は?
貝塚結核病院のあった場所は大阪府貝塚市橋本1175番、「せんごくの杜」の南端に位置します。
最寄り駅は、水間鉄道「名越駅」とJR阪和線「和泉橋本駅」です。車なら、阪神高速4号湾岸線「貝塚IC」か阪和自動車道「貝塚IC」から15分ほどで到着します。
貝塚結核病院や周辺建物の現在は?
2009年に貝塚結核病院が閉鎖されてからは誰の手も入らず建物や敷地は荒れ放題の時を向かえ、肝試しや廃墟マニアだけが訪れる場所となってしまいました。
時代の流れによって閉鎖された「つくし寮」や「貝塚養護学校」が、どのようになっているのかを調べてみました。
貝塚結核病院は2011年の9月に取り壊し
貝塚結核病院の正式名称が大阪市立少年保養所であることから分かるように、ここは大阪市が運営する施設でした。
しかし、保養所としての機能を終えたため、2011年10月に貝塚市は大阪市から敷地を譲り受けることになります。その時点で仙谷荘病院はすでに取り壊され更地になっていたので、2011年9月までには取り壊しが完了していたことになります。
つくし寮と貝塚養護学校のその後
つくし寮は2014年から解体が開始され翌年には更地になっています。子どもの頃に入所されていた方の中には閉鎖後も足を運ばれていた方もいるようで、懐かしさと悲しさが伝わる投稿をされています。
貝塚養護学校は2009年まで学校として機能していたため建物はそのまま残されています。今すぐ授業を再開できる状態なので廃墟としてのイメージは全くなく、再利用の方法が貝塚市で検討されているところです。
大阪市立郊外保育所
2006年に閉園となりましたが周辺の広場も含め手入れが行き届いているため、廃墟といったイメージは一切なく今でも利用可能な状態です。
府道に面している立地のため交通のアクセスが良く、民間事業者や非営利団体などの活用も含めて再利用に期待が寄せられています。
再開発地として利用
貝塚市は37haにも及ぶ貝塚結核病院などの跡地を買い取り、再開発地として利用の検討を始めています。
大阪市からの買い取りに当たっては公益性の高い土地利用が条件になっているため、豊かな自然環境を残しながら憩いの場や教育・福祉活動の強化に力を入れることになります。また、都市災害に備えた広域避難所としても活用方法が検討されています。
2016年3月には、普段は運動公園として利用し災害時には防災広場の役割を担う施設が、貝塚ピクニックセンター跡地に完成しました。ここは災害発生時に自衛隊や消防のヘリが離着陸できる防災拠点として陸上自衛隊が工事を行い整備した広場です。
東日本大震災の教訓からヘリポートの重要性を学び、空路からの救援を受け入れる施設として利用され、防災訓練もすでに始まっています。
2016年8月からは、イタリアンレストラン「森の小径」と乗馬クラブが併設して営業を開始しています。
貝塚市では再開発地としての基本構想を2013年に発表しているため、企業誘致の計画が増えることで更に再開発が進んでいくことでしょう。
イタリアンレストラン「森の小径」と乗馬クラブ
「森の小径」は自家製ハーブと地元の食材を利用した、手作りがこだわりのイタリアンレストランです。いくつものレストランを渡り歩いたシェフたちが作る料理を、リーズナブルな価格で楽しむことができます。
乗馬クラブ「ハーモニーファーム野のはな」が併設され、本格的な乗馬だけでなく乗馬散歩(曳き馬)も体験することができ、豊かな自然の中でゆったりとした時間を過ごせます。西日本最大級の広さを誇る屋内馬場は、日焼けが気になる方におすすめです。
犬を飼っている方ならドッグランが利用できます。最大600平米の敷地には水飲み場も設置されているので、緑の中を自由に遊ばせることができます。レストランのテラスでは犬と一緒にランチも可能です。
名称 | 森の小径 |
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住所 | 〒597-0053 大阪府貝塚市地蔵堂460番 |
最寄駅 | 水間鉄道「名越駅」JR阪和線「和泉橋本駅」 |
TEL | 072-488-7805 |
FAX | 072-488-7805 |
時間 | 11:00~21:0010:00~18:00 |
定休日 | 水曜日 |
レストランと乗馬クラブの運営母体は「ハーモニーファーム野のはな」で、2003年に大阪府泉南市の泉南生活協同組合が資金提供して設立された社会福祉団体です。障害福祉サービスのほかに高齢者のデイケアなどの福祉事業を行っています。
また、馬と触れ合うホースセラピーにも積極的に取り組み、不登校児童が学校に復帰するためのサポートを行っています。
「せんごくの杜」の開発計画
貝塚市は約37haある千石荘病院跡地などを「せんごくの杜」と命名し土地利用による開発事業を進めています。
せんごくの杜は利用方針によって、防災拠点としての「ピクニックエリア」、歴史遺産のある千石堀城址を「里山エリア」、建物を有効活用する「養護学校・少年保養所エリア」、企業誘致のための「養護学校・少年保養所エリア」の4つのエリアがあります。
「養護学校・少年保養所エリア」では研究・開発や流通拠点としての利用が想定されていて、事業者の選定が行われているところです。2019年1月時点では最終的に2プランが候補に残り、最終的な調整に入っています。
貝塚結核病院の跡地は憩いの場になった
病院跡地は資金難などの理由で放置されることが多く、昼は廃墟マニア、夜は心霊スポットの肝試しとして人が集まりやすい場所です。
しかし、貝塚結核病院の跡地は、建物の解体が早くから進められてきました。間もなく廃墟のイメージは一新され、ここがかつて関西屈指の心霊スポットと呼ばれた場所だとは誰も想像できないエリアになっているはずです。
貝塚結核病院跡地に現存する建物は機械警備され警備員による巡回も行われているようですから、興味本位で訪れるのは止めておいたほうがよさそうです。