小塚原刑場跡は歴史ある名所!首切り地蔵や解体新書の扉絵も紹介
小塚原刑場跡は東京都内にある歴史ある名所であり多くの著名人が眠る場所です。処刑場だった小塚原刑場跡には首切り地蔵があることから一部では心霊スポットとしても知られています。この記事では小塚原刑場跡にある歴史ある名所と首切り地蔵とはどういうものなのかを紹介します。
目次
歴史ある名所「小塚原刑場跡」を紹介!
小塚原刑場跡は、東京都にある歴史ある名所として歴史好きな人たちに人気のスポットです。日本史に名を遺す有名な人々が眠る場所である小塚原刑場跡は、鈴ヶ森刑場跡、小和田刑場跡と共に三大刑場とも呼ばれています。
この記事では、多くの歴史ファンも訪れる小塚原刑場跡の名所や、関わった歴史、首切り地蔵について紹介をしていきます。
また、小塚原刑場跡の場所やアクセス方法もあわせて紹介をしていきますので、小塚原刑場跡へ行く前にぜひ、チェックしてみてください。
小塚原刑場跡とは?
小塚原刑場跡は、江戸三大刑場として江戸時代に多くの人が裁かれた刑場です。罪人の中には歴史的にも有名な人物がいたことから、その人物のファンという人も多く訪れます。
小塚原刑場跡で裁かれた罪人の多く、亡くなった方の死体も多かったとされています。江戸時代当時は罪人をしっかりと埋葬されなかったので、夏になると亡くなった人の臭気が充満して、野犬やイタチなどが遺体を食い散らかし、恐ろしい光景が広がっていたと記録されています。
その光景を見た墨田区の回向院の住職が、亡くなった罪人を供養するために常行堂を創建し、以後は小塚原回向院となり、処刑された罪人たちを埋葬するようになりました。
多数の有名人が眠る場所
小塚原刑場跡では、数多くの罪人が裁かれ、その数は年間約1000人とも言われています。中には日本の歴史を大きく揺るがした事件にかかわった有名人が眠っています。
教科書や歴史番組でも度々名前をみる「吉田松陰」や、「頼三樹三郎」「橋本左内」「鼠小僧を含む悪役四人組」など一度は名前を聞いたことがあるという人が多いのではないでしょうか。
特に吉田松陰は、明治維新にかけて重要な人物を輩出したことから江戸幕末の歴史が好きな人に今もなおファンが多い偉人です。
小塚原刑場跡がある場所
小塚原刑場跡がある場所は、東京都南千住にある、最寄り駅は南千住駅となります。千住大橋の南側にある街が小塚原だったことから刑場の名前は小塚原刑場跡となりました。
南千住は開発が進んでいて、複数の路線が乗り入れているのでアクセスもよく駅前には新しいマンションやショッピングモールがあるので、買い物をするのにもおすすめの場所となっています。
駅前は開発が進んでいますが、南千住駅から少し離れれば昭和の雰囲気が残る下町の街並みがあるので、昔からある純喫茶や定食屋などレトロな雰囲気を楽しめるエリアといえるでしょう。
小塚原刑場跡の歴史
ここからは、小塚原刑場跡の歴史について4つのお話を紹介をしていきます。歴史にあまり詳しくないという人でも一度は聞いたことがある有名な話もありますが、足を運ぶ前に歴史を学んでから訪れれば著名人の気持ちに触れながら歴史に触れることができるのでおすすめです。
もっとも有名な安政の大獄
小塚原刑場跡の歴史1つめのお話は、小塚原刑場跡の歴史の中でももっとも有名な安政の大獄です。
安政の大獄とは、1858年(安政5年)に行われた政治弾圧のことです。江戸幕府の大老「井伊直弼」や「中間部詮勝」などが中心となり、アメリカとの通商条約である”日米修好通商条約調印”などの政治方針に反対した勢力を弾圧しました。
安政の大獄による弾圧の結果、明治維新の精神的指導者とされる「吉田松陰」を含む8名が死刑となり、ほかにも数多くの大名や志士などが処罰されました。
井伊直弼が暗殺された桜田門外の変
小塚原刑場跡の歴史2つめのお話は、安政の大獄を起こした井伊直弼が暗殺された桜田門外の変です。
桜田門外の変は、1860年3月3日に江戸城桜田門外で江戸幕府の大老である井伊直弼が暗殺された事件です。安政の大獄により”日米修好通商条約”などの政治方針の反対派を罰した井伊直弼に対する不満が膨れ上がった結果、江戸城の桜田門外で元水戸藩士によって井伊直弼が暗殺されました。
事件を起こした総指揮者である関鉄之助は、襲撃には不参加でしたが襲撃後に潜伏していたのを捕らえられて小野塚刑場で処刑されたのち、回向院に埋葬されました。また、関鉄之助以外にも多くの元水戸藩士が眠っていますので、訪れた際には歴史上重要な事件に関わった人々に手を合わせてみてはいかがでしょうか。
二・二六事件にもかかわりがある
小塚原刑場跡の歴史3つめのお話は、昭和のクーデター「二・二六事件」にもかかわりがあります。
小塚原刑場が使用されていたのは江戸時代までですが、1936年、昭和のクーデター「二・二六事件」にも関係しています。回向院に埋葬されている「磯部浅一」は事件の首謀者でこの地で銃殺刑に処されたとされています。
磯部浅一は、皇道派青年将校の理論的指導者である北一輝のもとに出入りしグループの中心として知られました。栗原安秀らと共に1936年2月26日から29日にかけて1483名の下士官兵を率いてクーデター未遂事件である「二・二六事件」を起こしました。
「二・二六事件」で処刑された青年将校や事件に遭難した人たちを供養するため、渋谷税務署には慰霊像が建っていますので、こちらもあわせて訪れてみてはいかがでしょうか。
医学の進歩にも貢献した場所
小塚原刑場跡の歴史4つめのお話は、医学の進歩にも貢献した場所というお話です。
小塚原刑場跡近くにある小野塚回向院では、墓所だけでなく回向院にある壁にも注目をしてみてください。壁には歴史の教科書で見たことがある「解体新書」の扉絵に基づいた記念碑があるんです。
この記念碑は、解体新書を作成した前野良沢と杉田玄白は、オランダ語で書かれているターヘル・アナトミアの人体解剖図を検証するために小塚原刑場を訪れたことを記念します。
当時、人体の解剖は禁止されていましたが、刑場では処刑された刑死者の解剖である腑分けが行われていました。解剖をしていた「虎松の祖父」と呼ばれる解剖士が前野良沢と杉田玄白に肺、心臓、胃などを正確に切り分けて解説しました。
このことをきっかけに、ターヘル・アナトミアの解剖図と一致していたことが分かった二人は、その後、オランダ語の翻訳に苦しみながらも解体新書を作り上げました。
小塚原刑場跡の首切り地蔵について
小塚原刑場跡には、墓所だけでなく東京の観光名所としても知られている首切り地蔵が安置されています。この首切り地蔵は小塚原刑場の歴史には欠かせないお地蔵様となっています。
この首切り地蔵は1741年に小塚原刑場で処刑された者の菩提を弔うために作られました。年間で約20万人が処刑されたとされる小野塚処刑場は、刑場が創設された当時は丁寧に埋葬されることなく、土をかぶせただけの状態だったため遺体を野犬が食い散らかすという光景がみられる場所でした。
ですが、本所回向院の住職が遺体の埋葬と供養と行うために堂行堂を作り、首切り地蔵を安置したことで処刑された遺体が放置されることなくしっかりと供養されるようになりました。
首切り地蔵は、花崗岩27個を組んで組み立てられています。首切り地蔵という名前から首がないお地蔵様と思う人もいるかもしれませんが、実際はとても穏やかな顔をしているお地蔵様を参拝することができます。
首切り地蔵のある場所
首切り地蔵は、小野塚処刑場跡を線路で挟んだ反対側にある延命堂に安置されています。小野塚処刑場跡はJR常磐線が開通したことで首切り地蔵と小野塚処刑場跡が分断され、真ん中を線路が通っているので、訪れる前に一度場所を確認してから行くのがおすすめです。
延命堂内にあるので、松田松陰などの墓所を訪れる前に足を運ぶこともできます。また、人通りも多い場所で休日には観光客も多くこの場所を訪れます。首切り地蔵がどういった理由で作られたかという理由の説明もすぐそばにあるので、説明を読めば一層首切り地蔵について理解することができます。
小塚原刑場跡に眠る歴史的有名人
小野塚処刑場跡には歴史的有名人が多く眠っています。ここからは、小野塚刑場跡に眠る有名人を紹介するとともに、どういう人物だったのかということを紹介していきます。
大変多くの有名人が出てきますので、小野塚刑場跡に行く前には、歴史上でどういう影響を及ぼした人物なのかを知っておくことがおすすめです。
吉田松陰
小塚原刑場跡に眠る歴史的有名人1人目は、吉田松陰です。
吉田松陰は、長州藩士で明治維新の精神的指導者であり理論者・倒幕論者として知られています。私塾「松下村塾」を作り、その後に明治維新で重要な働きをする多くの人たちに思想的影響を与えました。
安政の大獄の際に梅田雲浜が江戸幕府に捕まったことがきっかけで連座された吉田松陰に幕府が行ったのは梅田雲浜が山口県の萩に滞在していた時の会話の確認でしたが、吉田松陰は老中暗殺計画を自ら進んで告白しました。この結果、死罪が宣告され安政6年10月27日に伝馬町老屋敷にて執行され満29歳の若さで亡くなりました。
吉田松陰はのお墓は、回向院を入ると右手奥にある史蹟エリアとされる一画の奥正面にあります。
悪役四人組
小塚原刑場跡に眠る歴史的有名人2組目に紹介するのは、悪役四人組です。
悪役四人組とは、その名前の通り江戸から明治時代に名前をはせた極悪人のことです。江戸時代後期の有名な窃盗犯「鼠小僧次郎吉」や河内山宗俊と共に詐欺などの悪事を働いた「片丘直次郎」、明治時代に夫を毒殺し稀代の悪婦と知られている「高橋お伝」、喧嘩で深手を負った腕を弟子に切り落とさせた「腕の喜三郎」です。
この悪役四人組は全員小野塚刑場で処刑されています。お墓は一列に並べられており墓石にも特徴があります。裁かれた罪状によって作られているので四人組それぞれのお墓に手を合わせることができます。歴史に名を馳せた悪役四人組が気になる人はぜひ、足を運んでみてください。
心霊現象の噂もある
小野塚処刑場跡には心霊現象の噂もあり、東京の心霊スポットとしてもしられています。年間で約20万人が処刑されたといわれる小野塚処刑場ですが、処刑された人の中には反対派というだけで処刑され命を奪われました。
小野塚処刑場跡で噂される心霊現象は、処刑された人の霊がでるという噂などが多くありますが、実際に心霊現象を体験したという話や目撃の話は見受けられていません。人通りも多いことから昼間は怖さもなく訪れることがでいますが、夜はお墓もあるので少しだけ不気味な雰囲気を感じてしまう人もいるそうです。
霊感が強い人が訪れた際には何か感じることがあるかもしれませんが、イタズラな気持ちで訪れず供養の気持ちをもって訪れれば大丈夫と言われていますので、亡くなられた人への供養をするのに訪れてみてはいかがでしょうか。
小塚原刑場跡の詳細情報
小塚原刑場跡は、歴史が好きな人は訪れたい歴史スポットの一つといえます。ここからは、小塚原刑場跡へのアクセスと基本情報を紹介していきます。
小塚原刑場跡へのアクセス
小塚原刑場跡は、南千住にある延命堂の南側にあります。駅から見ることもでき、徒歩でも1分ほどで向かうことができます。
松田松陰などのお墓がある小野塚回向院へ行く場合は南千住駅の北側となります。駅から徒歩で3分ほどとこちらも近い場所にあります。
小塚原刑場跡へ行くにも小野塚回向院へいくにも駐車場はありませんので、車で訪れる時には駅の駐車場を利用するか、近隣のコインパーキングを利用するようにしましょう。
小塚原刑場跡の基本情報
小塚原刑場あとは、南千住にあるお寺内にあります。そのため開門時間と閉門時間があるので訪れる際には時間に注意しましょう。
開門時間は8時、閉門時間は18時となっています。お寺がお休みという日は特にありませんので、年中無休で訪れることができます。
延命堂も回向堂にも一般の方たちのお墓もあるので、訪れる際にはお寺に迷惑がかからないように参拝をしましょう。
住所 | 〒116-0003 東京都荒川区南千住5丁目33−10 |
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アクセス | ●小塚原回向院:南千住駅から徒歩で約3分 |
小塚原刑場跡は歴史に深く関わる場所だった!
小塚原刑場跡の歴史や眠っている有名人の歴史についてお話をしていきました。小塚原刑場跡は歴史に深くかかわる東京の有名スポットです。心霊スポットとしても有名な場所ですが、南千住駅からも訪れやすい場所にありますので、歴史が好きな人や興味がある人はぜひ、訪れてみてください。